コメント

内山 節(哲学者)

それは手づくりの世界でもあり、この大地とともに暮らすプロフェッショナルな人びとの世界だ。
進歩ではなく、深められていくことを喜ぶ世界。
発展ではなく永遠の世界。
技術ではなく技の世界。
知識ではなく知恵の世界。
そしてこんな人間たちの営みを見守っている自然。
それはいまでは多くの人たちがあこがれている世界だ。

畠山千春(新米猟師)

舞台となる越後妻有は雪深い集落。
1人では生きていけない場所だからこそ、この場所は人を1人にしない。
美しく厳しい大自然のなかで、良いことも悪いことも丸ごと受け入れて共に生きていく彼らの姿はとても逞しい。
人間らしく自然体に生きる、ここの人たちが大好きになった。

迫川尚子(写真家/新宿ベルク副店長)

かつて新宿のダンボール村でカメラを構え、シャープな写真を撮りまくっていた木暮茂夫さん。
まさかカメラを向けられる立場になるとは。しかもこんな美しい映画の主人公として。
ダンボール村の消滅とともにカメラを捨て、新潟で茅葺職人になったという話は聞いていたが、そこでもダンボール村時代のコミュニティの精神がしっかり生きていることを知った。
嬉しかった。

大林宜彦(映画作家)

そこに人が()み、それぞれの暮しを()い合って古里を創る。
その強い意志を、深い雪や田畑の(みの)りや山羊の命と同等に描く。
かつての日本には、こういう人と自然との風景が当り前にあった。
が、これは回顧(ノスタルジー)ではなく、再生への覚悟(フィロソフィー)
映画を使って、その祈りを穏やかに開放。
映画の「劇」の(きわ)み。讃!

北川フラム(アートディレクター/「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」総合ディレクター)

豪雪、春の山菜採り、田植、米の収穫、萱刈り、集落の祭り。
変わらず廻ってゆく山里の生活とそこに生きる人々の群像。
そしてハッとする美しい光景。カメラはたんたんとそれらを幻のように記録していく。

荒井良二(絵本作家・イラストレーター)

この美しい里山の村や人たちは、自然の「あたりまえ」の中に在る。
この「あたりまえ」が何とも深い味わいで、傾ぐ家はそれを雄弁に語りかけているように思う。

会田誠(美術家)

僕は新潟市出身なのでディープ新潟=豪雪地帯は、知っているようで知らない世界。そして僕は、新潟市でさえ地味と切り捨て東京に行き、現代アートなんぞをやっている。そんな男の(疚しさや罪悪感を含む)心を始終モヤモヤと刺激し続ける映画だった。主要な登場人物の多くが新潟出身でない(新潟弁でない)ことも、あるリアリズムとしてのポイントだろう。日本全体の今後百年について思い巡らさざるを得なかった。なんの大事件も起きない淡々とした映画だから、スパッと答えが見つかるわけではないのだけれど、ジワジワと来る。そして長時間粘っただろう撮影が見事。美しい(ちょっと美しすぎる?)自然や、酔漢たちののびのびとした振る舞いには、「よくぞ撮れた」と思うシーンが多々あり。